「チャレンジ」という言葉について

日本人が日本語として使う「チャレンジ」という言葉が嫌いだ。
「チャレンジ」を多用する人は「挑戦することが大事」よりも「挑戦する自分が大事」により重きを置いて伝えているように聞こえてならない。そして多くが、その事実に気づいていない。

「チャレンジ」を連呼する者の眼は、どこにあるかも分からない実態のないおおよそキラキラしたものを見つめているように見える。よく見ると二本の足は地上から2センチほど浮いている。

ちょうど1週間前、この言葉の洗礼を受けた。特に求めていないが、チャレンジすることが人生で最も大事だと、釈迦のように説かれた。見たことはないが、この人のもとで働く社員も同じようにキラキラと瞳を輝かせふわふわと浮いているだろう。

チャレンジは日本語で「挑戦」という。小学生向けに訳すと「やってみる」くらいの温度感だろうか。「やってみる」ことの連続で、生まれてこの方、人は育ってきた。挑戦というとどこか、余分な力が入ってしまう。あえて挑戦という言葉で自分を追い込みこれまで成し得なかったことを実現させる人もいる。アスリートなんかがその部類だ。しかし、皆が皆、「挑戦」という言葉に未知なる楽しさを感じる訳ではない。ましてや横文字で「チャレンジ」と言われてもどこか他人事のように感じる。

多くの人が「挑戦」という言葉に少なからず一瞬躊躇する。だから「やってみる」くらいがちょうどいいと、私は思う。肩の力を抜いて、「まあやってみて、あとは追い追い、」最期までコツコツ走り続けるには、それくらいがちょうどいい。